岐阜県柔道協会

協会について

岐阜県柔道の歩み

  • 武徳殿
  • ※ このページは、『明日を拓く柔道ぎふ』(岐阜県柔道協会50周年記念誌)の内容を転載しています。
    HPへの掲載を快諾して下さった小野勝敏先生(岐阜経済大学教授)に感謝致します。

近代柔道の興隆
  • ●明治・大正期の柔道
     岐阜県における近代柔道の萌芽は、二つのルーツが考えられる。一つは警察、もう一つは学校柔道を通してである。明治27年11月、岐阜県の巡査教習所(警察学校)の正課科目として柔道が採用され、初代の柔道助教として巡査・高麗周五郎が就任し、初期の警察柔道の確立に尽力する。彼は、尾張藩の柔術師範・前田武崇の高弟であり、師より真神道流と楊心流柔術を学んだ。
     学校柔道は、明治29年3月、旧制岐阜中学に柔道部が新設される。この初代の柔道教師として、警視庁より来県した居相民吉が考えられる。岐阜県における講道館柔道の最初といえる。彼は、巡査教習所の教師との兼務であった。大正5年には、東濃中学の柔道助教に就任する。
     明治37年には、警視庁より米本重蔵が来県し、居相と同様に岐阜中学と巡査教習所の柔道助教に就任する。
     飛騨においては、明治44年8月に大坪末蔵が警視庁を退職後、講道館柔道を学んで帰郷し、高山で誠武館道場を経営する傍ら、斐太中学校の柔道教師に任命される。渡部賢顕彰碑(大垣公園)
     以上に記述した以前の岐阜には、天神真楊流の免許皆伝を得た大垣の渡部腎がいる。彼の功績については、大垣城内公園にある顕彰碑によれぼ大垣藩の柔術師範のみならず、明治41年、大日本武徳会より柔道範士の称号を授与され、大垣に道場を開設していることを知ることができる。明治45年に85歳で没している。
     渡部の高弟に、川合留七がいる。彼は、明治30年に講道館、33年には大日本武徳会柔術講習所に入門し柔道の修行をしている。31年4月に大垣中学校、40年10月に県師範学校の柔道教師に就任にしている。
     このように岐阜県における柔道は、明治20年代末頃から警察と学校で実施されたことに由来することが明らかとなる。
    大正時代になると岐阜中学に佐藤嘉平と宇古則一が着任する。
     大正7年に警視庁より大島保造が警察官教習所の教師として来県する。
     この頃、大垣の清水準一と川合静一は、大日本武徳会での修業を終えて帰郷し、清水は県師範学校と本巣中学校、川合は県師範学校と大垣中学校の柔道教師となる。
     昭和期の学校柔道の指導者は全盛であり、柴村実と萩原実が斐太中、鈴木輝雄は岐阜二中と武義中と岐阜薬専、堀端要と山田勲が岐阜商業、辻義一と福井栄次らが岐阜中学、玉井善一が岐阜農林、水野義一が本巣中学、古橋友三が岐阜薬専に着任する。他方、警察柔道は昭和5年に江崎良一、昭和12年に愛甲敏人が就任する。
     以上のように、明治中期から昭和の初期にかけて、岐阜県に続々と指導者が着任し、岐阜柔道の基礎を盤石のものにするのである。

  • 近代柔道の興隆

    近代柔道の興隆

  • ●二つの柔道機関の設立
     岐阜県の柔道は、二つの組織によって発展してきた。
     それは、明治15年5月に創始された「講道館」と明治28年4月の「大日本武徳会」系の二つの流れをくむ柔道の組織である。
     岐阜における「大日本武徳会岐阜支部」は、明治37年4月29日に誕生している。この機関は、支部長に知事、副支部長は警務長(警察本部長)が就任することと規約にあることから、行政と警察が中心となって、柔道・剣道・弓道などの武道の普及を図り、県内の各地で演武会などの大会を開催した。
     他方、「講道館柔道」は、全国の柔道修行者を組織し、会員相互の親睦と昇段のための機関として、各県に「有段者会」を設置することにし、大正11年1月、嘉納治五郎を会長とする「中央有段者会」を講道館内に新設した。
    岐阜県柔道有段者会発会式(昭和4年) 昭和4年9月17日に、「岐阜柔道有段者会」の発会式が嘉納と山下義韶などの高弟を迎えて、岐阜武徳殿で挙行された。初代会長には、岐阜地裁の西沢雅佳検事が就任する。発会式当日の出席者として、米本重蔵、福井栄次、大坪末蔵、西本賢次、大島保造らの名前を見いだすことができる。
     この二つの機関の役員を昭和14年発行の資料よりみると、次のような構成となっている。
     前者の「大日本武徳会岐阜支部」は、支部長に宮野県知事。柔道部名誉教師として、大島保造、福井栄次、清水準一、川合静一、江崎良一の名前が記されている。後者の「岐阜柔道有段者会」は、会長が未定とあるが、副会長に大島保造とある。役員として、福井栄次(岐中)、清水準一(県師範)、川合静一(大垣中)、江崎良一(警察部)、山田勲(岐阜商業)、鈴木輝雄(武義中)とある。
     このように、この頃の指導者の多くは、二つの機関の指導者を兼ねていることが明らかとなる。
     大日本武徳会岐阜支部の殿堂たる岐阜武徳殿は、明治41年6月に岐阜公園内に竣工している。しかし、昭和28年11月13日の未明に焼失した。
     飛騨武徳殿は、昭和11年7月30日、高山城二の丸跡で地鎮祭を挙行している。この武徳殿は、戦後、市内の小学校の講堂に転用されたが、後に民間に売却されたのち、台風により崩壊した。
     このように戦前、県内に武徳殿が建設されたけれども、現存する施設は、大垣城公園にある大垣市体育館の建物のみとなっている。
     学校柔道における柔道場の広さは、大正6年の資料によると県師範学校は150畳、大垣中学校は80畳とある。岐阜武徳殿は、柔剣道120坪とあるので、柔道場だけでは120畳となり、ほぼ学校柔道と同じ広さといえよう。

  • 近代柔道の興隆

岐阜県柔道協会の発足

 昭和20年8月15日、日本は連合国軍に無条件降伏をした。
 連合国総司令部の指導で、戦後色の払拭のため「大日本武徳会」は昭和21年10月に解散となる。柔道は、昭和20年11月付の文部省通牒により、学校教育における正課及び課外での実施が中止となる。但し、学校教育以外ではその限りではなかつた。昭和25年10月、体育教材として再び実施が認定されるまでの5年間、学校柔道は茨の道を歩むことになる。
 上記のように、社会スポーツとしての柔道稽古は禁止されていなかったので、昭和21年の秋、大島保造、山田勲、杉山千住、岩倉和彦、山内兼降、熊田吉夫らが柔道愛好会と名づけて「岐阜武徳殿」で練習を開始した。
 警察においては、昭和22年12月、自治体警察と国家地方警察が創設されると、前者に杉山千住と伊藤秀雄、後者には、山田勲と熊田吉夫を師範に迎え、戦後の警察柔道がスタートする。
 この頃、岐阜市においては、徹明体育館に柔道場を設貿し、鹿野耕一、杉山、伊藤を指導者に迎えた。大垣市では、鹿野正夫、児玉一夫、宗宮市雄らが警察道場を借りて練習を開始した。23年4月、西濃各地の柔道愛好者によって西濃柔道協会が発足し、高木数之助が会長に就任した。中濃では昭和22年10月、鈴木輝雄が復員し、23年4月美濃町同好会を結成し活動を開始する。東濃では、23年10月伊藤郁郎の復員後、修徳館道場を再開した。沢井要が脇カし、東濃柔道を再スタートさせた。飛騨では、22年1月、岡山英治、藤井紀一、大楢千秋、中才崇らが発起人となり、高山柔道倶楽部を結成し、今日の基盤を確立した。
 以上のような五地区での胎動により、県柔道協会設立の機運が熟し、24年4月、岐阜市体育館に五地区の代表者が集い、「岐阜県柔道協会」を創立した。初代会長に田中啓一、理事長に山田勲を選出した。同年5月、県体育協会に加盟をする。

成長期の柔道界

●各種大会のスタート
 まず最初に、県下における各種柔道大会の開始時期についてみる。
 上記でふれたように、GHQによる学校柔道の禁止は、昭和20年11月から25年9月の許可までの5年に及んだ。したがって、県下における中学、高校の柔道大会の開始は、それ以降となる。しかし、学校柔道以外の警察とか町道場での練習は禁止されていなかったので、戦後から25年までの期間に近隣県などでの各積大会に出場を果している。
 たとえば、22年の中部日本柔道団体大会と東日本柔道対抗試合、23年の福岡国体と東海三県対抗柔道大会などの参加実績を有している。
 学校柔道では、27年に県下高校柔道大会、28年に県高校総体、30年には県下高校柔道個人選手権大会、32年には、県定時制高校大会柔道競技、35年には県中学校体育大会柔道競技が開始されている。
 一般では、24年に県下五地区対抗柔道大会、27年に県下都市体育大会柔道競技、29年に県段別柔道選手権大会がスタートするが、40年から名称が県体重別柔道大会と変更される。32年に県下職域対抗柔道大会が新設となるが、35年に県下各種団体対抗柔道大会と名称が変わる。
 このように、県柔道協会の創立以降の24年から30年代にかけて、県下の学校そして一般の各種柔道大会が続々と開始され、県柔道発展の墓礎を盤石のものとする。

  • ●全国区入りした県柔道
     昭和40年の10月25日から3日間、岐阜市民センターを会場として、第20回岐阜国体秋季大会柔道競技が、全国・47都道府県の高校・教員・一般の精鋭を迎え、華々しく開催された。
     試合前日に挙行された開会式の後、鈴木輝雄と杉山千住は古式の形を披露し、会場より万雷の拍手を浴びた。
     試合は、高校から始まった。岐阜国体における古式の形
     陣容は、監督に国光溢夫、選手に古田善伯、上野成夫、坂田誠有、横山利春、篠田充弘であった。
     1回戦に長野県に2対1、2回戦は広島県を1対0で破り、3回戦では千葉に1対3と惜敗したが、ベスト8に残ることができた。
     教員の部の陣容は、監督・深川純一郎、選手・古賀悟、関根昭三、渥美茂四郎、雑賀正年、松岡靖久であった。
     2回戦で徳島を4対0と圧勝したが、準決勝で大阪に0対1で惜敗した。北海道との3位決定戦に臨んだが0対0の代表戦となり、よく健闘したが破れ4位となった。
     最終日の一般の部の陣容は監督・兼定正明、選手・下田翼、山本忠史、兼松興一、狩野聰、小田島汀男であった。
     1回戦で埼玉と0対0の代表戦となったがこれを下し、2回戦の和歌山を4対0と圧勝する。3回戦の長崎とは1対0で勝利したが、準決勝の東京とは善戦及ぽず0対2と破れ4位に入賞する。
     岐阜県柔道は、3部門の健闘により全国で堂々総合3位の栄誉に輝いた。この躍進により、全国区入りの展望が築かれた。

  • 成長期の柔道界

    成長期の柔道界

円熟期の柔道界

●各種大会のスタート
 岐阜国体後より厳近までに開設された県下における各種柔道大会についてざっとみる。
 昭和45年に県下少年柔道大会が開始された。続いて、50年に県学生柔道連盟が発足し、その年の12月に第1回大会が開催されている。52年より、三岐学生柔道対抗試合がスタートし現在まで引き続いて行なわれている。この両県学柔連の主催で、2回の韓国遠征試合が実現された。56年には、県柔道整復師柔道大会、63年の県警察少年柔道大会、平成5年の県柔道形選手権大会の開始は、全日本柔道形競技大会に先立つこと4年前であり、本県柔道の先進性が伺われるのである。そして、8年に県柔道整復師杯少年団体柔道大会が開始されている。
 このように、県柔道は過去の歴史や伝統を守りつつも、時代の変化や社会の要請を機敏に受けとめ、建設的な対応をしていることが明らかとなる。


  • ●県柔道の名を県内外に高揚
    (1) 青森国体での総合優勝
     昭和52年10月3日より5日までの3日間、第32回青森国体が五所川原市民体育館で開催された。
     本県から少年と教員と一般が出場し、総合優勝の栄誉に輝いた。
     この栄誉は、県内外に岐阜県柔道ありとその名を高らしめることができた。
     少年の部の陣容は、監督に伊藤誠剛、選手として山田哲太郎、奥田富夫、渡辺浩二であった。成績は、1回戦で山梨と0対0の代表戦となったが、善戦及ばず無念の涙をのんだ。
     教員の部は、監督に後藤忠彦、選手として伊藤誠剛、小山内一男、熊田利行の陣容で臨んだ。1回戦は大阪を2対0で制す。2回戦の宮城、3回戦の宮崎をそれぞれ3対0で下した。準々決勝では、富山と0対0の代表戦となったがこれに勝ち、準決勝に駒を進めた。しかし、北海道に0対1で惜敗した。3位決定戦にも、長崎県に0対1で敗れ悔し涙を飲んだが、4位に入賞した。
     一般の部は、監督・後藤忠彦、選手として岩田廣茂、谷口満、中田喜代司、横山利春、下野修の陣容であった。2回戦で岩手、3同戦で京都、準々決勝で東京をそれぞれ2対1で沈めたが、準決勝で神奈川、3位決定戦で長崎にそれぞれ0対3で破れたが、4位に入賞する。
     全国大会での総合優勝は、県柔道協会が創始されて以来の快挙であり、県柔道の歴史に輝かしい金字塔を刻むことができた。

(2) 各種委員会の誕生と県武道館の完成
 昭和56年2月、県柔道協会は規約を改正し新たに、広報、審判、普及振興、強化、調育研究の5委員会を発足させた。この第1回の合同委員会は、県整骨会館で開催された。
 各種委員会の発足は、社会の変化と時代の要請をうけ、組織の強化と円滑な運用を図るために業務を分割し、各分野の責任体制を明確にすることを目的とした改革であった。
 これらの委員会の設置とともに、県柔道協会の機関誌として、会員や関係者へ情報の提供と組織の公開を目的として『柔道岐阜』を再発刊することとなった。翌年1月、20年振りに第6号が刊行され、平成11年で第23号となっている。
 また、県柔道協会が長らく待ち望んだ県武道館が、平成元年3月に岐阜メモリアルセンター内に完成した。この柔道場は、630.18㎡の面積で、道場内部は師範席と常峙に4試合の展開を可能にしている広さを有している。その上、観覧席・442席と冷暖房装置が完備されている。県柔道の殿堂にふさわしい大道場の完成といえよう。
 完成以降、この殿堂で各種の大会が開催され、県柔道の強化と普及振興の礎えとなっている。

21世紀に向けての柔道ぎふ

 岐阜県柔道協会は、昭和24年の誕生より今日まで、柔道の普及振興による会員の維持と確保、柔道修業者の練習環境の整備と指導内容の充実および国内外で活躍する選手・団体の育成と支援などを本県柔道のスローガンとして、会長を頂点にこれらの充実と実現に邁進してきました。
 この努力の結果として、平成元年に待望の県武道館の竣工を見ることができた。このような県道場の建設は、何も県だけでなく県下の各地区においても立派な道場が続々と完成している状況である。
 また、これまでに国体、全日本選抜団体、全国高校、全国中学校柔道大会など数々の全国大会を開催してきた。そればかりか、52年の青森国体での総合優勝そしてオリンピックや全日本柔道選手権大会などの諸大会で、県関係選手の大活躍を見ることができ、県柔道の名と存在を全国各地へ知らしめることができました。
 しかし最近の状況は、必ずしもこれまでのように前途洋洋といえない。なぜなら、これからの岐阜柔道の骨格となる中学と高校生の柔道人口が著しく減少していることである。この理由として、社会の少子化現象、スポーツの多様化、青少年の柔道離れ、加熱化する受験戦争、指導者不足による柔道部の廃部などが考えられるが、いかにしてこの柔道人口の減少に歯止めをかけるかが、喫緊の課題となる。ただ手をこまねいているだけでは、県柔道の土台を揺るがす事態となろう。
 平成12年8月に、本県の関市で開催が予定される全国高校総体柔道競技の成功と活躍が大いに期待される。なぜなら、このような全国大会の開催は、県柔道各界各層のレベルアップや柔道人口の拡大や選手の育成・強化を図る絶好のチャンスとなるからである。そのためにも、とくに将来の県柔道を荷う青少年に夢と明日への希望を与える大会にしなければならない。
 それに、国際化時代におけるとくに近隣諸国との柔道を通じた親善交流も今後の課題となりましょう。
(記:小野勝敏)

参考文献

冨田英雄『中央日本柔道界の展望』昭和13年
講道館『大日本柔道史』昭和14年
大島保造『柔道常識』昭和14年
岐高同窓会『岐高百年史』昭和48年
老松信一『柔道百年』昭和51年
岐阜県教育委員会『岐阜県教育委員会三十年の歩み』昭和55年
岐阜県警『岐阜県警察史』昭和57年
高山体育協会『高山市体育協会史』昭和61年
愛知県柔道連盟『愛知県柔道連盟史』平成7年
全日本実業柔道連盟『神永昭夫の軌跡-ガンバレ柔道ニッポン-』平成7年
岐阜県体育協会『岐阜県体育協会50周年記念誌』平成9年
高山柔道協会『高山柔道協会50年のあゆみ』平成11年
雑誌『柔道』、『作興』、『武徳誌』、『武徳会誌』

会長挨拶

組織

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